スターへの道
第12章:思いもよらない転機

中国航空宇宙部の部長(大臣に相当)である孫家棟教授は、中国初の人工衛星「東方紅1号」を発明したことでも知られる国 内トップクラスの科学者だった。1991年のある日、わたしはパリのオフィスで孫教授と面会した。孫部長とお会いしたそのとき、弁護士のパトリック・ド・ ワトリガン氏から急ぎの電話が入った。「5分でもいいから、会って話をしたい」というのだ。ワトリガンの事務所はわたしのオフィスのすぐ近所にあった。わ たしは戸惑ったが、ひとまず孫部長に30分だけ待ってもらうことをお願いし、その間、シャンゼリゼ大通りを見学してもらうことにした。その間にワトリガン 氏が持ち込んだ問題を急いで片付けてしまおうと思ったのだ。

崔黄紫霊と孫家棟部長。パリにあった崔のオフィスにて


わたしには何が起こったのか、さっぱりわからなかった。ワトリガン氏の事務所に到着すると、そこには背が高く、焦った表情をしている1人のフランス人男性 がいた。ワトリガン氏は「この方はわたしのクライアントで、調教師をしておられるレスボードさんです」と紹介した。レスボード氏は管財人からの命令で、 45頭の馬をいっぺんに売り払わなければならない事態に追い込まれていた。その中には、26頭の明け2歳馬(生後18ヵ月の馬)と数頭の3~4歳馬、同じ く数頭の障害馬などが含まれていた。これらの馬はもともと日本の沢田正彦という人が所有しているのだが、その沢田氏の事業が突然、破綻に追い込まれたとい うのだ。

ジャン・レスボード氏はフランスの田舎町で生まれた


沢田氏は日本の億万長者だった。彼はレスボード氏に依頼して、シャンティに厩舎をつくった

シャンティトレーニングセンター
   
シャンティ城


レ スボード氏は沢田氏のために、ドービルで26頭の1歳馬と数頭の障害馬を購入した。そのうちの1頭の小さな牝馬がアーバンシーだった。アーバンシーが厩舎 に到着するやいなや、レスボード氏は彼女の気性の良さに魅了された。1日中よく眠り、餌もよく食べるのに、とても勇ましい。アーバンシーはたちまちレス ボード氏のお気に入りとなった。レスボード氏は、名馬オールアロングを育てた著名な調教師、パトリック・ビアンコーヌ氏が使用していた厩舎を借りることに した。レスボード氏は、アーバンシーがオールアロングのように優れた競走馬になることを予感していたのだろう。

ジャン・レスボード氏は、名馬アーバンシーを発掘した

 

厩舎を借りて1年が過ぎ、数頭の2歳馬がようやくレースに出られるようになったそのとき、沢田氏は経営破綻の憂き目に遭ってしまったのだ。

管 財人はすべての馬を競売に掛けることを決定したが、レスボード氏は、それによってアーバンシーを失ってしまうことを何としても避けたかった。そこで彼は、 親友であり、国際民事問題の弁護士としても著名なパトリック・ド・ワトリガン氏に助けを求めたのだ。レスボード氏はワトリガン氏に「45頭の馬を一度にす べて買い取ってくれる人を探してほしい。この中には、僕にとってダイヤモンドにも等しい馬が含まれているんだ」と懇願した。レスボード氏はすっかり弱り 切っていたようで、わたしがワトリガン氏の事務所にいる間、ひと言も言葉を発しなかった。

レスボード氏はアーバンシーのことを、大きなダイヤモンドの
原石に等しい存在だと思っていた

 

ダイヤモンドか?アーバンシーか? どちらかひとつを選ぶことが
できないほどアーバンシーは重要だった


ワトリガン氏から、「レスボード氏は馬たちと離れ離れになるのを嫌がっている。そこで、あなたが管財人と交渉して、合理的な値段ですべての馬を買い取って もらえないだろうか」と相談を持ち掛けられ、わたしは途方に暮れてしまった。まとまった数の競走馬を買うには、それなりのお金が掛かる。それに、優秀な馬 は数頭しか含まれていないというのに、なぜ45頭のすべてを買い取らなければならないのだろうかと思った。レスボード氏は管財人に対して、1~2頭ずつで はなく、必ず45頭まとめて買ってくれるバイヤーを探してほしいと要求していた。そのときはレスボード氏の意図することが理解できなかったが、後になって わかった。バラバラに売ってしまったら、新しい馬主たちはそれぞれ別の調教師を雇うに違いないが、45頭まとめて買ってもらえれば、レスボード氏が引き続 き調教師として雇ってもらえる可能性があるからだ。高額な厩舎の賃貸料を毎月支払うためにも、45頭分の養育費を確保することは不可欠だった。そして何 より、レスボード氏はアーバンシーを自分の手で育てるチャンスを失いたくなかった。しかし、なぜわたしが救いの手を差し延べなければならないのか? わた しはこれまで、サラブレッドとは何の縁もなかった人間なのだ。ところがワトリガン氏は、中国人女性であるわたしにとって、この取引は滅多にないチャンスだ と確信しているようだった。

ワトリガン氏は、どのようにして、彼のクライアントを社交界のセレブから、馬を愛する女性に変貌させたのか?
   
キャリアウーマンと馬の牧場主、どちらを選ぶべきか?

 

左から)セイコーエプソンの服部靖夫副会長(当時)、タントコ女史、崔黄紫霊、カルティエ現代美術財団のアラン・ペラン代表


ワトリガン氏はわたしに、レスボール氏のことが書かれた雑誌の記事を手渡し、「これを読んでもらってから、もう一度お話しをしましょう」と言った。わた しは釈然としないまま自分の事務所に戻り、再び孫部長と面会をした。なぜ20分も面会を中断してしまったのか、孫部長に釈明することもできなかった。

崔黄紫霊と孫家棟部長、西昌の衛星打ち上げ基地にて


その日は、わたしの人生における大きな転換点となった。競馬の世界に飛び込み、地球上でもっとも優れた牝馬を手に入れることになった瞬間だった。振り返っ てみれば、さまざまな偶然の結び付きによって、わたしは競馬の世界へと導かれたのだ。そのとき、わたしはまだ、自分が本当に馬を買うなどとは考えてもいな かった。まるで見えない力に背中を押されるように、馬との関係が始まったのだ。

妖精が振り下ろす魔法の杖が、わたしの運命を変えた
   
競馬の世界との出会い


その日の夜、わたしは弁護士のワトリガン氏から受け取った雑誌の記事を読んでいるうちに、眠れなくなった。そこには、レスボード氏の半生が綴られていた。 ボルドー生まれのジャン・レスボード氏は、1968年からフランス南西部で、地域が認定する競走馬の調教師を務めていた。浮き沈みが激しく、逆境の多い人 生を歩んできたようだ。苦しい時期には、自分が食べるのを我慢してまでも馬に餌を与えていたという。いつしかレスボード氏は、苦楽をともにしてきた馬たち を、人間以上に愛するようになった。その影響を受けて、息子のクレモンも馬をこよなく愛するようになったのだ。

クレモンとアーバンシー
   
クレモンとアーバンシー

ジャ ン・レスボード氏の人生に彼が待ち望んでいた転機が訪れたのは1986年のことだ。パリ近郊のシャンティで、ジョージズ・ブリズニャンスキー氏が所有する 競走馬を訓練することになった。わずか2シーズンの間に、レスボード氏の訓練した馬は華々しい成績を収めた。1988年に行われたフランスの凱旋門賞で は、レスボード氏が調教したボヤティノが、トニービン、ムトトに続く3着と大健闘した。凱旋門賞は毎年10月の第一日曜日にパリのロンシャン競馬場で開催 される中距離のチャンピオンシップだ。ヨーロッパ各地で活躍した馬が一堂に会するG1レースだが、名だたる競走馬たちが居並ぶ中で、ボヤティノはまったく 無名に等しかった。翌89年には、レスボード氏が育成し、エリック・ルグリが騎乗したトリブルックが国際G1レースとして知られるフランスのカドラン賞で 優勝している。日本の大金持ちで競馬愛好家の沢田正彦氏がレスボード氏に注目したのは、このカドラン賞での勝利がきっかけだった。






 
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