スターへの道
第16章:もう1頭の優勝馬、アデュー オゥ ロワ

アデュー オゥ ロワは、とても神経質な栗あし毛の馬だった。父親(種牡馬)はケンマールだ。とてつもないパワーを持っていたが、情緒が非常に不安定で、レースで十分な実 力を発揮できないのが玉にキズだった。そんなアデュー オゥ ロワが初めて勝ったのは、メゾンラフィットで行われた小さなレースだった。その走りを見てアデュー オゥ ロワの潜在能力を感じ取ったレスボード氏は、よりレベルの高いレースに出場させることにした。ロンシャンで行われるオカール賞レース(G2)だ。

ユベール・ド・ワトリガンが1992年に描いたアデュー オゥ ロワ

 

1992 年5月10日正午、レスボード氏とクレモンはわたしを連れて競馬場に入った。わたしにとって自分が所有する馬のレースを観戦するのはこれが初めてだった が、それを知っているせいか、レスボード氏も緊張気味だった。それまで足を運んだことのない競馬場にわざわざ出向いたのは、もっとも親しい友人の1人であ る劉亭亭がパリを訪ねてきたからだった。彼女は1959年から1968年にかけて中華人民共和国主席を務めた劉少奇氏の娘である。レスボード氏も劉少奇氏 の名声はよく知っていて、亭亭がその娘であることを告げると非常に感激していた。

中国共産党のリーダーたち。右から周恩来氏、劉少奇氏、朱徳氏、毛沢東氏
(1950年)

 

わたしと劉亭亭は、共通の友人である徐文連氏を通じて知り合った。徐文連氏は、1924年から59年にかけて中華人民共和国の元帥を務めた徐向前氏の息子だ。

サ ンフランシスコでハイテク企業を創業した徐文連氏は、わたしの兄である黄錫礼(パトリック・ウォン)博士の友人だ。兄のパトリックは米国でトップクラスの 科学者の1人で、独自に開発した先端的な薬物輸送システムが高く評価され、2005年の最優秀発明家賞を受賞している。わたしも科学は大好きなので、彼の 発明について教えてもらうために、しばしば長電話をしたものである。同じように徐文連氏も、頻繁に兄と連絡を取ってアドバイスをもらっていた。

インペリアル・カレッジ・ロンドンの博士号取得後学位を目指していたころのパトリック

 

先進的な薬物輸送システム


徐 文連氏がわたしに劉亭亭を紹介してくれたころ、亭亭は現代中国の新しい星として注目されていた。中国が文化大革命の真っただ中にあった1966年から76 年にかけて、すなわち「四人組」が権力を掌握していた時期、わたしは欧州に住んでおり、現地の新聞の限られた報道だけでは母国で何が起こっているのかを詳 しく知ることはできなかった。亭亭の教えてくれる情報だけが頼りだったのだ。

中国の文化大革命(1966~1976年)

 

劉 亭亭の父親の劉少奇氏は1967年、「反革命」的であり、プロレタリア階級における「最大の走資派」であると糾弾され、「四人組」によって拘束された。劉 少奇氏は獄中でさまざまな責め苦を受け、1969年にこの世を去っている。亭亭自身も、文革中は無実の罪で囚われの身となっていた。

 

文化大革命期の宣伝画

 

1981年、公開裁判を受ける「四人組」のメンバー

 

劉 亭亭の身分や生い立ち、無罪の罪で投獄された経験、その後ハーバード・ビジネス・スクールに学んでMBAを取得し、現代中国を代表するビジネスウーマンに 変貌を遂げたことなど、そのすべてにおいて、わたしの目に彼女は特別な女性に映った。亭亭と出会ったころ、彼女は米国の多国籍企業の代表を務めており、し ばしばパリで行われるビジネス会議に出席していた。

姪のジェニファー、劉亭亭とわたし。ロンシャンにて

 

わ たしたちの馬が出走する際には、つねにマチュー・ブータンという騎手が乗っていた。だから、アデュー オゥ ロワをオカール賞レース(G2)に出場させるに当たって、レスボード氏が英国人ジョッキーのウォルター・スウィンバーンを騎手として登録したことは、いさ さか驚きだった。しかしスウィンバーン騎手は、10代のころにシャーガーという馬を駆ってダービーとアイリッシュダービーで優勝した華々しい経歴の持ち主 だったので、レスボード氏の選択は必勝を狙ったものだったと言える。このように、レスボード氏はつねに勝つことを考え、わたしはつねに馬の養育費用を捻出 することを考えるのが、それぞれの役割だった。そして息子のクリストファーは、優勝トロフィーを集めることが楽しみとなった。三人三様だが、非常にシンプ ルな関係だ。

アーガー・ハーン4世の有名なシルクの勝負服をまとってシャーガーを駆るスウィンバーン騎手

 

ア デュー オゥ ロワが颯爽と1着でゴールすると、レスボード氏はほっと安堵のため息をつき、競馬場は大歓声に包まれた。レースを終えたアデュー オゥ ロワがレスボード氏に引かれてやってくるのを見ると、クリストファーはすぐさま、アデュー オゥ ロワに向かって駆け出した。わたしと娘のクリスティン、劉亭亭は、優勝馬を表彰する柵の前で、アデュー オゥ ロワが来るのを待っていた。

オカール賞レースで優勝したアデュー オゥ ロワと一緒に。左からウォルター・スウィンバーン騎手、崔黄紫霊、クリスティン、クリストファー、崔宝栄

 

劉亭亭は興奮して、レスボード氏を「名伯楽」と褒めたたえ、アデュー オゥ ロワに対しては「まるで千里馬のようだった」と絶賛した。わたしと劉亭亭は、アデュー オゥ ロワが偉大な競走馬に成長したことを確信したのだ。

ペガサス

 

「千里馬に乗って狩りをする康熙帝」カスティリオーネ(1661~1722)作

 

し かし、アデュー オゥ ロワの躍進は続かなかった。その後出場したジョッケクルブ賞では8着、パリ大賞典では4着に終わり、わたしたちを失望させた。レスボード氏は、慣れ親しん だ場所よりも、新しい場所でレースをさせたほうがアデュー オゥ ロワの闘志が高まるのではないかと考え、この年の8月に開催されたドービルでのレースに出場させた。しかし、アデュー オゥ ロワは躍進するどころか、出走ゲートから出ることすら拒み、わたしたちを落胆させた。レスボード氏は、アデュー オゥ ロワの気まぐれな性格を変えるには、冬でも競馬が開催される温暖なフランス南西部のレースに参加させたほうがよいのではないかと考え、南西部の街ポーに向 かった。

出走ゲートに入るのを拒む馬

 

やがてリベンジのときがやってきた。1993年4月4日に開催されたアルクール賞レース(G2)である。このときレスボード氏は、すでにアデュー オゥ ロワの気まぐれな性格は改善され、レースに勝てるものと信じていた。

正しい鍵はどれか?

 

わ たしたちは正装をまとって観戦に臨んだ。クリストファーは幸運を呼ぶという紅いスーツ姿だ。レースが始まると、アデュー オゥ ロワは他の馬と足並みをそろえて出走ゲートから駆け出した。ところが何ということか、ゲートを出た途端にのろのろと歩き出し、他の馬たちに大きく引き離さ れてしまった。その姿は、まるで走ることを拒んでいるようだった。パリの競馬界におけるわたしたちの面目は丸潰れとなった。

あきれて笑う人々
 
面目を失う

 

次 の日の朝、アデュー オゥ ロワの様子を見るためにレスボード氏の厩舎に向かうと、そこには著名ファッションデザイナー、アンドレ・クレージュ氏の夫人がいた。夫人はわたしに、ア デュー オゥ ロワを米国の有名な競走馬セラピストであるモンティ・ロバーツ氏に診てもらったらどうかとアドバイスしてくれた。

 

アンドレ・クレージュ氏は1980年代に一世を風靡したファッションデザイナーだ

 

レ スボード氏は効果があるのかどうか懐疑的だったようだが、わたしはアデュー オゥ ロワを米国のサンタバーバラにあるフラッグ・イズ・アップ農場という場所に送って、治療してもらうことにした。英国のクイーン・エリザベス2世が所有す る1頭の馬もアデュー オゥ ロワに同行した。結論から言えば、治療は失敗に終わった。2年後、わたしはアデュー オゥ ロワをフランスに連れ戻して種牡馬にしようと考えたが、評判の悪い馬と交配させたいと考える馬主はいなかった。やむを得ず自分の厩舎で牝馬に交配させ、多 くの美しい仔馬を生ませたものの、父親の気まぐれな性格が災いして、仔馬を買いたいという人は現れなかった。結局わたしたちは、アデュー オゥ ロワを小さな牧場に農耕馬として売り払った。

 

アデュー オゥ ロワとモンティ・ロバート氏

 
アデュー オゥ ロワ。米国のサンタバーバラ郊外にあるフラッグ・イズ・アップ農場にて

 

セラピストの精神治療を受けるアデュー オゥ ロワ

 

テー クリスクは、わたしの主人を象徴する黄色の勝負服を着た騎手によってレースに参加することを許されたもう1頭の馬だ。このあし毛の馬は1992年にサンク ルーで開催されたジョンシェール賞(G3)で優勝し、同じ年にメゾンラフィットで開催されたメシドール賞(G3)では2着になった。さらに1993年に は、サンクルーのエドモンブラン賞(G3)で、7馬身差で1着に輝いている。

 

テーク リスクはエドモンブラン賞(G3)で、7馬身差で1着となった

 

夫 は、わたしが競馬に心血を注ぐあまり、ストレスがたまって不眠症になるのではないかと心配した。しかし、そんな心配をよそにわたしの競馬への情熱は深まる ばかりだった。アーバンシーなら期待を裏切らないという強い信頼、この馬がもたらしてくれる希望と夢、それこそがわたしの競馬に対するモチベーションの 源泉だった。わたしだけでなく、子どもたち、クレモン、そしてレスボード氏のすべてが同じ情熱を抱いていた。誰が何と言おうと、アーバンシーは、わたした ちの信頼に結果で報いてくれると信じていた。

 




 
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