シー ザ スターズと私
第1章:育成の喜びと悲しみ

凱旋門賞の勝利に対する喜びは少しずつ静まり、わが家には日常が戻ってきた。そんなある日、父親の崔宝栄は突然、一切の競馬活動をやめると言い出した。

父親は競馬活動から身を引くことを考えた

 

父 親は、凱旋門賞が平地レースにおける世界最高峰であることを信じて疑わなかった。すでに頂点をきわめたのだから、今後何をやっても、それを超えることはで きないと考えたのだ。父親は、人間はつねに新たな目標に向かって前進すべきだという信条を持っている。向上心ことが社会の進歩をもたらすのだ、と。だから こそ、すでに目標を成し遂げた分野については、胸を張ってやめるべきだと考えたのである。

わたしが最初のクルマを買う時も、父は「最初からロールスロイスを買ってはいけない」といった。なぜなら、最初から頂点を極めてしまうことになるからだ。

 

当 然ながら、母親の崔黄紫霊は父の決定に反対した。アーバンシーは凱旋門賞に優勝した後もシャンティでトレーニングを続けていたが、状態はあまり芳しくな かった。一本の脚に痛みを抱えてしまったのだ。母親はアーバンシーの売却を拒んだ。もし売ったりしたら、新しい馬主が、痛み止め注射を打った馬でも出場で きる米国のレースにアーバンシーを出走させるかもしれないと考えたからだ。*欧州競馬の規則では、痛み止め注射を打った馬を出場させることはできない。そ のため欧州には、過去に優秀な成績を収めながらも怪我をした馬を、米国で走らせる馬主も存在した。

 

止痛薬

 

こ のころ、すでにアーバンシーはレースに参加できなくなり、繁殖牝馬として第2の生涯をスタートしようとしていた。母親はアーバンシーのために優秀な種牡馬 を探すことに心血を注いだが、それは彼女にとっていままで経験したことのない取り組みであり、前途は多難だった。一方で父親は、毎週末シャンティに通って いた生活を一変させ、わたしにテニスなどのスポーツを学ばせることに夢中になった。

 

前途多難?
 
母は、何かに悩んだときには海に相談した。

 

母 親は、競走馬育成界でもの笑いの種になった。業界の人々は「あの中国人の婦人は、まるで牝馬の母馬のようだ」(la Femme Chinoise avec sa Jument)と嘲笑した。必ずしも悪意はなかったのかもしれないが、欧州において馬の育成は父子相伝の伝統的事業であり、その世界に新参者が入り込むこ とへの否定的な感情があったのかもしれない。

 

母親のアーバンシーに対する愛情は、周囲の人々のもの笑いの種になった
 
わたしにとって母親とアーバンシーの関係は、「女剣士と愛馬」の関係に見えた

 

経 験したことのない育成事業を成功させるため、母親は彼女の古い友人であり、よき指導者でもあるダニエル・ウィルデンシュタイン氏の育成センターを借りる ことにした。育成センターは広さ60ヘクタールで、敷地内には繁殖牝馬用が交配や出産するための場所、60頭分の厩舎、スタッフの宿舎や馬主用の住居など が設けられていた。繁殖牝馬1頭を育てるのにこれほどお金が掛かるのかと思うほど賃貸料は高額だった。アーバンシーはアラ・ドゥ・ヴィット(Haras de Victot)と呼ばれるこの育成センターの唯一の“住人”となった。

 

母親と姉のクリスティンは、週末のたびにドービル近郊にあるアラ・ドゥ・ヴィットを訪れた
 
ドービルで育成されているアーバンシーを訪ねた崔黄紫霊と、前中国国防部長(大臣に相当)の子息である張愛萍将軍

 

愛馬にミルクを与える崔黄紫霊

 

1995年、アーバンシーはフランスでもっとも優秀な種牡馬となったベーリングと交配。翌1996年2月15日、アーバンオーシャンという美しい牡馬を産んだ。

 

アーバンシーとアーバンオーシャンは、アラ・ドゥ・ヴィットの唯一の“住人”だった
 
アーバンシーと彼女の最初の子どものアーバンオーシャン。アラ・ドゥ・ヴィットにて

 

アーバンオーシャン、崔黄紫霊、孫家棟部長の子息の孫中亮氏
 
崔黄紫霊とアーバンオーシャン

 

1996 年の交配シーズンになると、母親はアーバンシーの交配相手として、アラブ首長国連邦のモハメド殿下が所有し、1995年の凱旋門賞の優勝馬であるラムタラ を選んだ。このときの母はまだ交配にかんする専門知識が乏しく、「もっとも優秀な牡馬ともっとも優秀な牝馬を掛け合わせれば、もっとも優秀な仔馬が生れ る」という競馬界の通説に素直に従ったのだ。

 

母親とアーバンシー、1997年にラムタラとの交配によって生まれた牝馬メリカー

 

母 親が交配に熱中するのとは裏腹に、父親は自分の妻が業界関係者から嘲笑されることに堪え切れなくなった。父は、すでにラムタラの子どもを身ごもっていた アーバンシーを売り払った。これで崔家の競馬ビジネスは終わったかに思われた。しかし、まだピリオドは打たれていなかった。

 

馬は神が愛した高貴な動物だ。
 
母親は、自分が愛する馬と離れ離れになることが耐えられなかった

 

母は、自分が愛するアーバンシーと何が何でも離れたくないと思った。そこで、ひそかに彼女自身の会社を設立し、その会社を通じて、高額を払ってアーバンシーを買い戻したのだ。

カネの力か? 母の情熱のエネルギーか? 母はつねに「カネはエネルギーだ」と言っていた。

 

父に知られることなく、アーバンシーは崔家に戻ってきた

「お帰り」(Welcome Home)、アニメ『トムとジェリー』より
 
わたしの妻は何をしたのか?

 

わ たしや姉のクリスティンを育てるのと同じように、母親はアーバンシーを優れた繁殖牝馬として育てるために、最善の機会を与えようとした。当時のアーバン シーにとっての最善の機会とは、もっとも優れた優勝馬として名高いサドラーズウェルズと交配させることだった。アーバンシーは海を越えて、「名馬育成の 国」として誉れ高いアイルランドに渡った。ティペラリー郡にある育成牧場には、交配相手であるサドラーズウェルズが待っていた。

 

「名馬育成の国」アイルランド
 
種牡馬の中の種牡馬、サドラーズウェルズ

 

そ れはまるで「聾唖(ろうあ)者の旅」のようだった。母親は英国の大学で英語を学んでいたが、「名馬育成の国」であるアイルランドの英語は、彼女が学んだ英 語とは発音がまったく異なっていたのだ。育成センターは国際化されていたが、フランス語の通訳はいなかった。ましてや中国語を話せるスタッフなど望むべく もない。アイルランド訛りの英語は非常に聞き取りにくく、おまけに馴染みのない交配の専門用語がちりばめられるのだから、母親が途方に暮れるのも無理は なかった。後に母は、「まるで映画『ロスト・イン・トランスレーション』そのままの状況だった」とわたしに語ってくれた。フランスの競走馬育成界でも非常 に苦労した母だったが、アイルランドではさらなる苦労が待っていたのだ。

 

聾唖者の対話
 
母はへこたれることなく、つねに挑戦し続けた

 

言葉や文化の違いは、民族と民族を隔てる大きな壁だ

 






 
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