シー ザ スターズと私
第6章:運命の十字路

2009年5月2日に開催された英2000ギニー

レー ス直前の大切な時期にバカンスを楽しんでいたのは理由がある。シー ザ スターズが3月17日に高熱を発したのだ。アイルランドでシー ザ スターズを訓練している調教師のオックス氏は、母に「英2000ギニーへの出場は難しいかもしれない」と話していた。高熱を出したせいで、満足な訓練がで きなかったからだ。

シー ザ スターズは3月17日に高熱を発した

 

英 2000ギニー開催の前日、わたしは香港に戻ってきた。母親は空港から直接ロンドンに向かうように言ったが、気乗りしなかった。オックス氏からの知らせで は、すでにシー ザ スターズの体調は完全に回復したようだが、わたしはバカンスから戻ったばかりで非常に疲れていたし、家族を代表してシー ザ スターズの走りを見ることへのプレッシャーも感じていたからだ。シー ザ スターズは、わが家の誇りであるアーバンシーの息子である。しかも今回のレースは、英国のクラシックレースにおける初陣であり、世界でもトップクラスの 騎手がわたしを象徴する色の勝負服を着て騎乗する。かつては父の色が、わが家を代表する勝負服の色だったが、いまや代表としての役目をわたしが果たす年齢 になっていたのだ。すでにわたしは、かつてのような小さな少年ではなかった。

シー ザ スターズのレースを観戦することに、わたしはプレッシ
ャーを感じた
 
シー ザ スターズは、わたしの色の勝負服を着た騎手を乗せて走った

 

結 局、わたしは香港の家でテレビ観戦をすることにした。母親は、シー ザ スターズの単勝に1000英ポンドか、シー ザ スターズとデレゲーターの連勝複式に2000英ポンド賭けることをわたしに提案した。もともとわたしはギャンブルに関心がなかったので、母が勧める金額は 大き過ぎるように感じた。そこでシー ザ スターズの単勝に100英ポンド賭けることにした。倍率は10倍だった。

 

シー ザ スターズの単勝に100英ポンド賭けた。倍率は10倍だ

 

そ の日わたしは、胸に「you can never have too many guitars」(こんなにたくさんのギターは持てない)とプリントされたTシャツを着てテレビ観戦した。わたしがギターの演奏とコレクションが好きなこ とを知っている母が贈ってくれたものだ。この日以来、わたしはレースのたびに、縁起を担いでこの幸運をもたらすTシャツを着るようになった。

 

わたしの最愛のTシャツ

 

レース中は常時、iPhoneのヘッドフォンを耳に当てているのもわたしの習慣。いつでも母親と電話連絡が取れるようにするためだ。

レース中、iPhoneのヘッドフォンを耳に当てているクリストファー

 

レー スは、たった1分35秒88という短い時間で決着したが、ハラハラドキドキしながら観戦したわたしたち家族には、とても長い時間に感じられた。シー ザ スターズが1着でゴールを駆け抜けると、香港時間で夜中の10時だというのに隣近所の迷惑も考えず、わたしたちは大歓声を上げた。わたしたち家族にとっ て、英国のクラシックレースで優勝することは、奇跡でも不可能だと思うほどの快挙だった。

 

英2000ギニーで優勝することは、奇跡でも不可能だと思うほどの快挙だった

 

家 族全員が歓喜に包まれたが、とりわけ母親は感慨もひとしおだった。彼女は愛するアーバンシーの交配を成功させるために、さまざまな苦労を重ねた。その努力 が実って、アーバンシーの子どものシー ザ スターズが重賞レースで優勝を果たしたのだから、その喜びは計り知れない。信念を持ってアーバンシーとケープクロスを交配させた彼女の取り組みが報われた のだ。

さようなら、わたしの愛馬
 
母の悲しみ

 

悲 しいことにアーバンシーは2009年3月2日、最後の子どもであるボーン トゥ シーを産んでこの世を去った。アーバンシーは臨終の間際に、生まれたばかりのボーン トゥ シーをやさしく舌で舐めてきれいにした。生まれたばかりの仔馬は元気だったが、アーバンシーの体は弱り切っていた。出産から数分後、アーバンシーはその 20年に及ぶ数奇な生涯にピリオドを打った。

 

アーバンシーの墓に向かって哀悼するクリストファー。アイルランド国立種牡馬育成センターにて

 

アーバンシーの生涯はさまざまなエピソードに満ちていた。米国ケンタッキー州の育成牧場で生まれた彼女は、いろいろな人の手を経て海を渡り、パリにやって来た。やがて名調教師であるレスボード氏に見出され、崔家の一員になったのだ。

米国馬の産地のひとつ、ケンタッキー州
 
ケンタッキー州の仔馬

 

アーバンシーの輝かしい業績は、育成のプロによってもたらされたものというよりも、異なる文化的背景を持つ2つの家族の愛情と信頼、そして友情によってもたらされたものだと思う。

 

中国の伝統的な家族
 
欧州の伝統的な家族

 

2つの家族は、体格や容貌に恵まれない小さな牝馬であったアーバンシーを愛し、情熱を注いだ

2つの家族は、どちらもこよなくアーバンシーを愛した

 

アー バンシーは、その生涯の間に何度となく崔家とのかかわりを失いかけた。彼女が2歳のときには、母親の友人がわが家の競馬事業に出資した関係で、フランスの 地方競馬に売り飛ばされそうになっているし、3歳になった1992年には、Goffs Arc Saleというオークションで競売に掛けられそうになったこともある。1994年、5歳の彼女が脚に怪我をして欧州のレースに出られなくなったときには、 わたしの父親が、痛み止め注射を打った馬でもレースに出走できる米国に彼女を売り払おうとした。1995年には、アーバンシーを繁殖牝馬にするために専門 家に預けようという話もあったら、母親は自ら育成の世界に飛び込み、自分の手で彼女を育てようとした。その後、父親がアーバンシーを売却したこともあっ たが、母親はすぐさま大金を払って買い戻している。

 

アーバンシーは2歳のころ、ワインの産地であるフランスの田
舎に売り飛ばされそうになった
3歳になった1992年には、Goffs Arc Saleというオークションで競売に掛けられそうになった

 

4歳になったアーバンシーは、米国競馬に売られそうになった
 
母親はアーバンシーの帰還を歓迎した

 

アーバンシーが繁殖牝馬として初めてアイルランドに渡ったとき、母親は慣れない異国の文化と言葉の壁に苦しんだ。アイルランドにいる間、わたしたち家族とアーバンシーとのかかわりは一時的に途絶えることになった。

 

わたしたち家族にとって、アイルランドはまったくの異国だった

 

も しも母親がアーバンシーへの愛情と情熱を失っていたら、サドラーズウェルズの血を受け継ぐガリレオは誕生しなかったし、シー ザ スターズがアイルランドに生まれることもなかったはずだ。それがいまや、シー ザ スターズはアイルランドにとって至宝とも呼ぶべき存在となっている。

アイルランドの英雄、シー ザ スターズ
アイルランド競馬界の新しい象徴、シー ザ スターズ

 

伝説の優勝馬、サドラーズウェルズの継承者であるガリレオ

 

シー ザ スターズの初勝利は、母親にとって非常に意義深いものだった。それはアーバンシーの優秀な血がしっかりと継承された証拠だったからだ。アーバンシーは、その存在によって国と国や文化の壁を打ち破った。

 

世界の子どもたちはひとつになれる
 
文化の壁

 

アーバンシーは東西2つの世界のかけ橋となり、フランスの田舎で生まれ育った農夫のような調教師と、中国で生まれ育ち、科学的知識を持ったわたしたちという、文化的背景の異なる2つの家族をひとつにしてくれた。

 

農夫
 
科学者

 

わたしの母親はとてもクリエーティブな人間だった。彼女の辞書に不可能という文字はなく、自らが過去と現在のかけ橋になることを求めていた。

 

過去
 
現在


本 書の前半部分「スターへの道」を母親が執筆したのもそのためだ。彼女は過去の輝かしい出来事を今日に継承したいと考えた。ちなみに後半部分「シー ザ スターズとわたし」は息子であるわたし(クリストファー・チョイ)が書いている。本書を通じて、長い歴史と、国と国、人と人の固い絆によって築かれた競馬 の世界の魅力を1人でも多くの読者に知ってもらえたら、書き手としてこれほど嬉しいことはない。








 
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