伝説の馬、アーバンシー

ブロウ・スコット
アーバンシーとその子どもたち

2009 年3月3日、水曜日の午後。アイルランドの首都ダブリンの南西30マイル、キルデアという古い町の郊外にあるアイルランド国立種牡馬育成センターで、1頭 の鹿毛の牡馬が誕生した。母馬は凱旋門賞を制覇したアーバンシー、父馬は人気種牡馬のインヴィンシブルスピリットである。アーバンシーは最初、産んだばか りの仔馬をやさしく舐めていたが、間もなく息を引き取った。元気に生まれた仔馬の命と引き換えに、その伝説に彩られた20年の生涯に幕を閉じたのだ。それ からわずか7カ月後、彼女の息子である3歳牡馬のシー ザ スターズは、母親に勝るとも劣らない偉大なる金字塔を打ち立てている。アーバンシーとその子どもたちの物語は、優秀な血を受け継いだサラブレッドたちの偉 業が、いかに多くの人の心を魅了するものであるのかということを、改めてわれわれに教えてくれる。

新聞やテレビ中継でレース結果を知った数百万人の競馬ファンはもちろん、競馬関係者ですら、その偉業には驚いた

1993 年、アーバンシーが欧州 最高峰のレースである凱旋門賞を制覇したときは、誰もが驚きを隠せなかった。この勝利にとって彼女は伝説の馬となり、その子どもたちの活躍とともに競馬界 での注目度はますます高まっていった。アーバンシーは、少なくとも4頭のG1優勝馬を生み出している。ガリレオがダービーとアイリッシュ・ダービーを制覇 したのも非常に大きな快挙だったが、シー ザ スターズはさらに凄いことをやってのけた。多くのG1レースを制覇した後、そのシーズンの最高峰である2009年10月4日の凱旋門賞で勝利したのであ る。これは空前の快挙だった。アイルランド国立種牡馬育成センターで生まれたシー ザ スターズは現在、出生地からわずか5マイルほど離れた、アーガー・ハーン4世が所有するギルタウン育成場で種牡馬として余生を送っている。

ガ リレオとは種違いのシー ザ スターズは、華々しい戦績を上げた後、わずか3歳にして引退。現在は種牡馬として余生を送っている。その母親のアーバンシーは1989年2月18日、「ケ ンタッキーブルーグラス」の産地として名高い米国ケンタッキー州のパリ(フランスの首都ではなく、ケンタッキーの田舎町だ)の西部にあるデナリ育成場で出 生した。栗毛で、額に白い星があるのが外見的な特徴だ。父馬のミスワキはフランスの名馬、母馬のアレグレッタは著名なドイツのシュレンダーハン牧場の出身 である。アレグレッタは英国競馬で活躍した後、米国で売られることになった。

米国に到着したアレグレッタは 1984年11月、キーンランドで行われた競売に掛けられ、ミシェル・エノシュバーグ教授が落札した。パリ大学経済学部で教鞭をとるエノシュバーグ教授 は、卓越したサラブレッド調教師としても知られ、その名声は大西洋を越えて米国にも轟いていた。エノシュバーグ教授はマーク・ド・マーク・ド・シャン ビュール氏とともにマリステッド牧場という育成場を経営しており、その代表者としてアレグレッタを5万5000ドルで購入したのだ。これは、エノシュ バーグ教授の生涯においてもっとも賢明な選択だった。

卓越した繁殖牝馬であったアレグレッタは、アーバンシー のほかにも、英2000ギニーの優勝馬であるキングズベスト、フレンチ・ダービー優勝馬のアナバーブルーの母馬であり、自らもG1優勝を果たしたアレレト ロワなどを生んでいる。競走馬の交配は国際化が進んでいる。アレグレッタの子であるアーバンシーも、生まれて間もなくフランスのノルマンディーに渡り、 マーク・ド・シャンビュール氏の運営するエトレアム牧場で育った。この牧場は、第二次世界大戦中の1944年6月6日、連合国軍が有名な「ノルマンディー 上陸作戦」で上陸拠点としたオマハビーチから数マイルしか離れていない。

名調教師として知られるジャン・レス ボード氏が、後に彼の運命を大きく変えるアーバンシーにエトレアム牧場で出会ったのは1990年の夏のことだ。ボルドー南部の医師の子として生まれたレス ボード氏は、人生のすべてを投げ打って調教師となり、フランス各地を転々とした。やがてパリの50キロ北にあるシャンティの育成センターに採用されたレス ボード氏は、それまでの経験の集大成ともいえる華々しい成績を上げるようになる。そして、名声を聞き付けたある日本人の富豪から、馬の買い付けと調教を依 頼されたのである。レスボード氏が目を付けたのは、エトレアム牧場が8月のドーヴィル明け2歳馬オークションに出品したアーバンシーであった。レスボード 氏は、ひと目見るなり、このミスワキの種から生まれた栗毛の牝馬のとりこになった。

レスボード氏はアーバン シーとの出会いを、こんなふうに回想している。「牧場で初めて会ったとき、わたしはたちまち彼女に夢中になった。オーナーが日本の富豪だったので、購入資 金には問題なかった。見た目はそれほどよくないが、非常にたくましい体をしていた。とくに気に入ったのは、目がいきいきと輝いていたことだ」。レスボー ド氏は購入手続きが終わると、すぐにシャンティ南部のラモルレイにある自分の育成場にアーバンシーを運んだ。その後、冬の間、厳しいトレーニングを行った が、彼女はますます元気になっていったという。ところが、馬主である日本人が事業に失敗し、破産に追い込まれてしまった。そのため、レスボード氏はアーバ ンシーを含む22頭の馬を売り払わなければならなくなったのだ。

アーバンシーの新しいオーナーになったのは、 崔黄紫霊女史である。マーケティングと高級ファッションビジネスで成功を収めた崔女史は、パリではよく知られた人物であった。その後、彼女は中国で電子製 品の工場を立ち上げ、1986年にパリに戻って中国航天グループ傘下のチャイナ・チアースという会社のCEO(最高経営責任者)に就任した。レスボード氏 は、崔女史との出会いを次のように回想する。「友人を介して崔女史と面会すると、わたしは馬を手離さざるを得なくなった経緯を細かく説明した。すると話を 聞いた彼女は、すぐさま全部の馬を引き受けると言ってくれたのだ。これは非常にありがたいことだった」。

当 時、崔家には10歳の少年がいた。後にシー ザ スターズの馬主となる崔家亮(クリストファー・チョイ)氏である。当時、レスボード氏の厩舎で、ボウロウという名前の老馬に乗って乗馬訓練をした少年は、 アーバンシーの活躍を目の当たりにして、競馬の世界への関心を深めた。崔家亮氏は言う。「あのころはわたしたち家族にとって、とくに母親にとって素晴らし い時期だった。もともと母は競馬について何も知らなかったのだが、一生懸命に本を読んで、たちまち専門家になった。また、歴史に造詣の深い母は、中国の歴 代王朝にとって馬が非常に重要な存在だったことを知っていた。だからこそ、競馬への愛着も増したのだろう。歴史が古く、魅力に富んだ競馬の世界は、たちま ち母をとりこにした。だからこそ、アーバンシーのことを深く愛したのだと思う」。

「母は、フランスに滞在して いるときは必ず毎週末、アーバンシーのもとを訪ねていた」と崔家亮氏は振り返る。幸いなことに、レスボード氏はほどなく、アーバンシーと非常に相性のよい 騎手を見つけてきた。「アーバンシーが2歳のころは、あまりしっかりとした訓練ができなかった。まだ、激しい訓練に耐えられる体にはなっていなかった し、球節(足のけづめ毛の生じる部分)にちょっとした問題を抱えていたからだ。もっとも、走りにはさほど大きな問題はなかった。エヴリーのレースでは3着 になっているし、その後のメゾン・ラフィットでは見事優勝している。まるで3歳馬のようなしっかりとした走りで、わたしたちを喜ばせた」と、レスボード氏 は回想する。

とはいえ、当初はさまざまな紆余曲折があったようだ。アーバンシーが最初に出走したレースでは、 騎手が走行中に落馬するというアクシデントも発生している。ロンシャン競馬場でウォーミングアップを経験してから、アーバンシーは少しずつ本領を発揮し始 めた。5月にはドイツのデュッセルドルフで開催された独1000ギニーに出走するが、ここでは3着に終わっている。当時アーバンシーの騎手を務めたのは、 後にガリレオとシー ザ スターズにも騎乗するマイケル・キネーン氏だった。

その後、5月末にロンシャン競馬場で開催された準重賞に優勝すると、アーバンシーは6月にシャンティ競馬場で開催されたディアヌ賞で連勝を果たした。7月のエヴリーのレースでは惜敗したものの、8月にドーヴィル競馬場で行われたピアジェ賞では再び1着に輝いている。

国 際的な視野を持った崔女史と野心家のレスボード氏は、フランス以外の国のレースにも目を向けた。アーバンシーがロンシャン競馬場で行われたヴェルメイユ賞 で3着となった後、新たにエントリーした13レースのうち、6つは海外で開催されるレースを選んだ。1992年10月、カナダのトロントにあるウッドバイ ン競馬場で行われたE.P.テイラーステークスでは2着に輝いた。海外経験を引っ提げてフランスに戻り、1993年4月に出走したサンクルー競馬場開催の エクスビュリ賞では見事、優勝を果たしている。

1ヵ月後の1994年5月、英国のロイヤルアスコット競馬場で 開催されたプリンスオブウェールズステークスでは2着となったが、その後出走したレースでは立て続けに3連勝を飾っている。1勝目がアンジェ競馬場、2勝 目はドーヴィル競馬場、そして3勝目は、ロンシャン競馬場で開催された凱旋門賞だ。この年の11月には、東京まで長距離遠征してジャパンカップにも出場し ている。5歳馬で、しかも球節に怪我を抱えていることを考えれば、レースに出続けることはかなりの重労働である。それでもアーバンシーは、非凡な精神力を 発揮して勝負に挑み続けた。

最後のレースシーズン。アーバンシーは、最初にエントリーしたアルクール賞では優 勝したが、その後のガネー賞(G1)では3着となっている。そして引退直前、彼女は英国エプソム競馬場のダービーコースで争われるコロネーションカップに 出走したものの、4着で終わった。結局、4シーズンにわたったアーバンシーの生涯成績は22戦8勝。2着以下の入賞回数は7回だった。特筆すべきは凱旋門 賞の優勝であり、生涯獲得賞金は170万ドルを超えている。

アーバンシーの想像を超えた華々しい活躍は、誰よ りも彼女の馬主や調教師、そして多くの関係者たちを喜ばせた。そして、その優れた能力は、彼女が繁殖牝馬となってからも、関係者の想像を上回るほど存分に 発揮された。アーバンシーとフレンチ・ダービーの優勝馬、ベーリングとの間に生まれたアーバンオーシャンは、黄色(馬主である崔家の色)の勝負服を着た 騎手によって、アイルランドのナース競馬場のレースに優勝。初出場のレースで優勝するという快挙を成し遂げた。アーバンンオーシャンは以後、アイルランド のカラ競馬場で行われたガリニュールステークス(G3)をはじめ、14戦3勝を果たしている。だが、その後のアイリッシュ・ダービーではモンジューに敗れ て6着で終わった。

しかし、アーバンオーシャンを生んだことは、繁殖牝馬としての素晴らしいキャリアの始まり にすぎない。アーバンシーは次に、ダービーと凱旋門賞を制覇した名馬ラムタラと交配して、メリカーを生んだ。メリカーはドーヴィルで開催された明け2歳馬 のオークションで、アラブ首長国連邦のモハメド殿下に1000万フランで落札された。デビューレースで見事優勝を果たしたメリカーは、オークスでも3着と まずまずの成績を残している。ところが、そんなメリカーでも、アーバンシーが生んだほかのきょうだい馬の比ではない。とくに、クールモア育成場が輩出した 伝説の名馬、サドラーズウェルズとアーバンシーとの交配によって生まれたガリレオは、飛び抜けた能力を発揮した。ガリレオ自身がダービーとアイリッ シュ・ダービーの二冠馬であるだけでなく、その息子のニューアプローチも2008年のダービーで優勝を果たしているのである。

アー バンシーはサドラーズウェルズと2回以上、交配を行い、ガリレオのほかにも多くの優秀な馬を生んでいる。そのうちの1頭のブラックサムベラミーは、イタリ アのミラノで2002年に開催されたジョッキークラブ大賞を制覇したG1優勝馬。もう1頭のオールトゥービューティフルは2004年のオークスで2着に なっている。だが、さらに驚くべき存在は、2002年にアーバンシーとジャイアンツコーズウェイとの交配によって生まれた栗毛の牝馬だ。この仔馬は同年 12月に英国のニューマーケットで行われたタターソールズ社主催の競売会で、世界最高記録となる180万ポンドで落札されている。

マ イタイフーンと名付けられたこの牝馬も、相当の実力を持っていた。米国を拠点に長く活躍し、その生涯にわたって名調教師のビル・モット氏が育成した。マイ タイフーンは、サラトガ競馬場で開催されたダイアナステークス(G1)で優勝したのをはじめ、19戦9勝している。マイタイフーンの姉妹で、グリーンデ ザートを父とするチェリーヒントンも、シー ザ スターズの出生前においては注目された馬であった。2004年生まれのチェリーヒントンは、G3レースで3着に入ったほか、2007年のオークスでライト シフトに惜敗している。そして伝説の馬、シー ザ スターズが誕生したのは2006年4月6日のことである。母馬はもちろんアーバンシー、父馬はケープクロス。出生時の体重は64キログラムであった。崔女 史には、シー ザ スターズを手離す考えはなく、仮に競売に掛けられるのなら、財産を投げ打ってでも自ら競り落として取り戻すつもりだった。それほどシー ザ スターズは、崔家にとって大切な馬なのだ。

崔女史とその家族、友人たちがアーバンシーの交配相手として ケープクロスを選んだのは、無敵の馬を生み出したいという壮大な野心を持っていたからだ。それまでにケープクロスの種から生まれたウィジャボードは、 オークスとブリーダーズカップで優勝を果たしている。崔女史たちは、そうしたケープクロスの強さを受け継いだ馬がほしいと思った。シー ザ スターズは、そんな夢の結晶だったのだ。

体格に恵まれ、美しく、かといってあまり派手すぎない容貌をしたシー ザ スターズは、ジョン・オックス氏が運営するカラベグ厩舎で競走馬としての生涯を送った。この厩舎はアイルランドのキルデア州の南部に位置し、近くにはカラ ベグ競走馬育成センターがある。このほか、アイルランド国立競走馬育成センターの最高責任者であるジョン・クラーク氏が崔女史のアドバイザーを務め、ジャ ン・レスボード氏もレースのたびに彼女をサポートした。シー ザ スターズの伝説は、母親譲りの能力だけでなく、素晴らしいプロフェッショナルたちの努力によって生み出されたのである。

フ ランスで大活躍したアーバンシーの騎手は、レスボード氏の息子であるクレモン・レスボード氏が務めた。クレモン・レスボード氏は、アーバンシーが仔馬のこ ろから訓練し、レースではカナダや英国、香港、米国、日本などに遠征している。クレモン・レスボード氏は1997年、自転車運転中に交通事故に遭い、若 くしてこの世を去った。崔女史はアイルランドでの競走馬育成事業を本格化し、所有する繁殖牝馬の数が増加するにつれ、ブライアン・グラシック氏への依存度 を強めていった。グラシック氏は、キルデア近郊にあるニュータウン育成場で、崔女史が所有する多くの馬を育成した。しかし、グラシック氏は2009年1月 7日、がんで亡くなっている。

シー ザ スターズが競走馬としてのピークを登り詰めたのは、2009年夏のことだ。外部関係者の多くは、シー ザ スターズのチームにとって、この年は激動の1年だったと口をそろえる。喜びばかりでなく、いくつもの悲しみもあった。この年の3月3日には、アーバンシー がこの世を去っている。シー ザ スターズの伝説は、母親であるアーバンシーをはじめ、彼の栄光を見ることなく先立っていった多くの関係者の手によって支えられているのだ。

す べてはケンタッキー州の小さな町、パリから始まり、海を越え、数奇な運命を経て、アーバンシーは彼女を待ち望んでいた崔家の人々と巡り会った。崔家亮氏 は言う。「アーバンシーは、その競走馬としての生涯を通じて、わたしたち家族にとても大きな幸福をもたらしてくれました。わが家が育成事業を始めた当初、 母親は競走馬育成にかんする知識をまったく持っていなかったのですが、それでも彼女はアーバンシーが世界でもっとも優秀な繁殖牝馬になると強く信じていま した。そしてそれは、母が言うとおり現実のものとなったのです」。

10月29日木曜日、シー ザ スターズがオックス氏の厩舎を出て、カラ平原を越え、キルクーレン郊外にあるアーガー・ハーン4世のギルタウン厩舎に移動するまでは30分もかからなかった。しかしこれは、彼の種牡馬としての新たな長い旅の始まりであった。

シー ザ スターズの種牡馬としての生活を始めたギルタウンは、歴史と伝統に満ちた場所である。いまから3000年以上も前の新石器時代には城塞が建てられ、レイン スター王、シトー教会、ヘンリー8世や他の英国貴族などが治めた。現在この地は、その大部分をアーガー・ハーン4世が所有する競走馬育成場が占めてお り、その大きさはプライベートの育成場としては世界最大規模である。

シー ザ スターズはここで、アーガー・ハーン4世が所有する2頭の優勝馬と交配した。そのうちの1頭は、大柄で鹿毛の馬、アザムール。この馬は2004年から05 年にかけて、アイリッシュチャンピオンステークス、キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスを制覇している。もう1頭のダラカニは、優雅な芦毛 の馬で、2003年のフレンチ・ダービー、凱旋門賞にそれぞれ優勝している。

シー ザ スターズは、かつて驚異的な記録を打ち立てた2頭の名馬と並び称される伝説になろうとしている。そのうちの1頭は、シー ザ スターズよりも以前の2000年にダービーと凱旋門賞の二冠を制覇したシンダーであり、もう1頭は、1981年のダービーで2着に10馬身もの差を付けて 圧勝したシャーガーだ。すでにシー ザ スターズが成し遂げた偉業は、この2頭を上回っているともいえる。しかし彼自身も、彼を支える馬主や調教師たちも、まだ伝説になろうという考えはないは ずだ。今後、彼が受け継いできた素晴らしい血筋を次の世代へと継承し、より多くの優駿を生み出したときにこそ、初めてシー ザ スターズは伝説となるのである。競馬の新しい時代はギルタウンから生まれようとしている。








 
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